昭和51年1月29日 朝の御理解
                      中村良一
御理解 第78節
「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」



人間と、身代と、達者がそろうて、しかも、三代続いたら、まぁ神の機感、それが家柄一筋となって、神のお心にかのうたという事になるとこう仰せられます。そこで、神の機感に叶うという事。いうなら、真の人を目指す。真の信心をさせて頂く。そういう、私は、真の人、真の信心を目指す人こそ、まぁ神の機感に叶う、お心に叶う方であって、そういう生き方、勿論第一に、人間が出来る。そういう心の状態の人なら、健康にも恵まれるだろう。また、身代の上にも、万事にお繰り合わせを頂いて、そういう信心が、子に伝わり、孫に伝わらないはずがない。いよいよ、こういう信心を頂いていけば、子孫繁盛、家繁盛間違いないと確信の持てれるくらいな信心を、一つ、先ずは、身に付けようと、私は意欲しなければいけないと思う。ただ、目先目先のおかげを頂きさえすれば良いと。それではね。いわゆる、子に伝わり、孫に伝わるという。家繁盛、子孫繁盛という、その確信が持てないです。ね。その確信の持てれる。この道をこう歩いていけば、そら人間、まだまだ、これで良いという事はありませんから。それを、より良い生き方を、より良い信心を、いよいよ、目指して。
昨日一昨日でしたか。朝の御祈念の時に、ベターという事をいただくんですよ。本当、分からんもんですから、御祈念がすんでから、高橋さんに聞きました。そしたら、ベターと言うのは、より良いという事だそうですね。結局、信心は、ベターで行かなきゃいけないです。これで良いという事は、決してありません。もう、限りがないのですから。ね。ところが、一つの信心の、それぞれの、まぁ一つのタイプというかね。型が出来ますと、その型の中に入ってしまって、そこから、抜け出られないで、一生、それを本当だと思い込んでしまうという様な、例が沢山ございます。いうなら、馬鹿のいっちょ覚えのようにですね。これが本当だと、こう言う訳です。ね。だから、なるほど、それは嘘ではないでしょうけれども。より本当を目指すところにです。信心の、言うなら、進展。また、より良い、本当の事を目指させて貰おうとする願いがない限り、私は、ね。子に孫にも伝わっていくという確信が生まれないと思うです。
先日の、甘木の信徒会は、研修は、青年の方達と、普通信徒の、まぁ合同での研修であって。言うならば、信心の継承と。まだ私、秋永先生から聞きませんから、ただ、その行った方達の、断片的な話を聞いただけですから、本当か分からんですけれども。ここから、梶原君が、青年会の代表で発表した様です。だいたい、梶原君のお家は、もう代々、天理教の信心をなさっておられる。お父さんの弟さん等は、叔父さんに当たる方は、教会を持っておられるほどしである。そこの後継者として、自分が、あの願われた時もあると言うくらいに、言うなら、天理教で固まった家族であるらしい。それが、たまたま、永瀬さんの所の、伊藤さんが、ああした商売をなさっておられる。それに御手伝いをすることになって、永瀬さんの信心、それに連れられて、合楽にお参りするようになり。そして、金光様の信心というか、合楽の信心に魅せられて、自分は、本気で信心をさせて頂くようになった。そして、いよいよ、それが、まぁ講じてというか、ね。本当に、自分くらいな者でも、お使い回しが頂けるのならば、御道の教師にでも、お取立頂いて、自他共に助かっていく道を歩きたいという決心がついたという話をした様です。ま、大変、それが、まぁ受けたという事です。他所の、○○教とか、○○の信心しよったつが、入ってきたち言うか、なかなか、一つの何ですかね。お話の中に、魅力があります。そういうお話の後に、まぁ座談の研修の時に、秋永先生が司会をされた。どうして合楽には、ああして、若い者が育つかという様な事になってきた。
元の、この筑水の青年会の会長しておられた、萩のご信者さんか何かの方なんかは、もう、合楽の方の話を聞いたら、あとが話されんと言うたそうです。まぁ私は、その場におらんから、その雰囲気は分かりませんけれども。例えばその、そういう、信心の継承といった様な事でもです。ね。どういうようなところが違えば、ほんなら、言うなら、今日の御理解で言うならば、もう的確に、間違いなく、子供にその信心が伝わる。しかも、ほんなら、合楽で信心の、まぁ言うなら、総代とか幹部とかと、先生と言われる人達の所には、もう、言うなら、みんな先生が出来ておるという事。子供達が、みんな、御道の教師にでもなろうかという様な意欲に燃えた信心の継承が出来ておるという事。
秋永先生、久富先生しかりですよね。今度、永瀬さんの長男が、また、学院に行きますから、永瀬さん。ね。という様にですね。その、もう、自ずと、信心の継承が出来ておるということ。そこで、まぁ司会の私が、その説明するよりも、本人達が、今日は来ておりますから、合楽の修行生が、三四人行っとったそうですから。若い人達ばかりが行っとりますから、その若い人達の、どういう風にして、その信心を、親から子供への受け渡しが、どういう風に出来たかといった様な事を、一人ひとりずつ発表させたという事です。ね。それが、また大変、皆さんが、まぁ感心されたと言うのですけれどもです。私は、結局、親の信心だと思うです。ね。いわゆる、親自体が、真の信心を目指し。それは、その時点で、本当だ、本当でないという事は言えませんけれども。より、それこそ、ベターで行こうとしておる姿勢の信心を、段々、身に付けて行っておるからだと、私は思います。
昨日、ちょうど、朝の御祈念が終わりました時に、こちらへ到着しました。宮崎から、高橋さんの所の、宮崎支店の支店長をしております人と、それから、職人さんと、子供と三人で、ちょうど、夜のお店を終うて、それから、こちらへ発ってきておる。昨日の朝、ちょうど御祈念の後に、こちらへ到着いたしました。私は、ここでちょっと、書き物をしよった。それに、私は、こういう事を書いておった。苦しいから願わずにはおられんというところから、お互い、信心に入るもんです。いわゆる、悲しい時の神頼みという訳です。困ったという時に、いうならば、願わすにはおれないという信心。ね。だから、そういう信心が、例えば、もし、一生続いたとするならです。もうそれは、一番程度の低い信心だと言わなければなりません。ね。苦しいから、願わずにはおられんという信心から、段々、信心を分からせて頂いて、自分の無力さ加減というものが、自分が無力であるという事が、ね。分かるから願わずにはおられないという信心こそ、真の信心だと書き終わったところへ、ちょうど、三人連れで参ってきました。
だから、これを、さぁあんたに上げようと言うてから、まぁ、上げましたんですけれど。話を聞かせて頂いておるとです。本当に、やはり、こちらに、福岡のほうへおられた時分から、高橋さんのお導きで、ちょいちょい参って来ておりました。ですから、大変こう、何て言うですかね。まぁ言うなら、神様に、好かれるタイプの方です。まぁ幾らも、高橋さんところに支店があります中で、宮崎という所は、大した、そう恵まれた土地でもないのにも関わらず、まぁ一番調子よう行ってるのは、自分所のようですと言う。もう僕が、一番、感じ入ります事はです。結局、親先生の信心を、大将が受けてくださって、その大将 の信心が、私の所へ、こう流れ込んでくるものを感じるとこう言うのです。それを、私が受け止めておるという意味の事を言っております。ね。ですから、高橋さん所に支店は幾らもあるのですけれども。ほんなら、赤字続きの所もありますが、もし、支店長が、そういうような受け方をしたら、おかげ頂くだろうけれども。これが、みんな、高橋さんの信心を、家の大将の信心は、生き方が素晴らしいという事になってきたら、皆が、それに、入ってくる信心に導かれてくることになるだろう、ね。そこに始めて、ほんなら、株式会社三福の発展が、約束されるのだ。第一、人材という事が第一ですけれども、急にその、止めるとか何とかち言うのがあったり致しますと、もう必ず、その後にはもう、より良いその、小僧とか職人とかが入ってくるです。
私は、この年末から、この正月にかけて、一番、有難いと思わせて頂く事は、年末に、取引しておる魚屋さんが、もう無理やりに言うてその、魚を押し込んどったち言うわけです。そげん、どうするかち言うとったけれども、もう押し込まれたまましとったところが、先生、それだけは、きっちり、それだけはやっぱ、必要でしたち言う。もう神様の働き、もう魚屋を通して、神様の働いておられるという事を、まぁ感じますという訳です。ね。そこで、私が頑張るからというものが、段々、影を潜めていった。これは、宮崎三福支店が、これは、神様のおかげで、やはり、たって行きよるんだという事を思わずにはおられないと言うのです。いわゆる、真の信心に、いよいよ、一歩、足を踏み入れたという感じが致しますですね。ね。こりゃ、皆さんも、それを体験されたことでしょうけれども。もう本当にこの、自然の働きというものは素晴らしいです。ね。結局、自分の無力さ加減が、段々、自分の我が、影を潜めて、本当に、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんというところから、願わずにはおられないという信心に、私が、昨日ちょうど、書いて渡した、それが、だから高橋さんが、こりゃお前、額に入れて、ちゃんと貼っておかにゃいかんぞと。これを治めにゃいかんぞと言うておられましたがです。これが、徹底して、いよいよ、ほんなら、自分の無力さ加減、もう本当に、神様のおかげで、自分の店が立って行ってるんだ、責任を全うさせて頂いておるんだという事にならせて貰う時にです。ね。私は、いよいよ、自分の無力という事が分かるだろう。ね。そして、言うならば、三福寿司が大きくなれば、自分達も大きくなれるんだという確信をもって進んでいけると言うことが素晴らしいねと言うて話したことでした。
幾ら給料やらにゃ働かんとか何とかというのじゃない訳なんです。ね。本社と共に、大きくなろうとこう言う願い。それには、自分が、ただ、頑張ったと言うだけで立ち行くもんじゃない。その証拠には、他の支店の所を見たら、自分でも分かる訳です。それが、自分ところでは、そういう頂き方をさせて頂くところから、そういうおかげを受けておると言うのです。ね。だから、そういう真の信心を、しかもベターに進めて行こうとする。そういう、私は、信者氏子を、神の機感に叶うという事になるのじゃないでしょうか。
私は、昨日、竹葉会の方達に、話を聞いて頂いた事でしたけれども。どげん考えても不思議である。この筑後一円、この辺にだけです。三代金光様が、神愛会を三つも神愛会を置かしになっておられるという事です。ね。一番早かったのは、椛目の私のほうですから、神愛会という、神の愛の会という神愛会。あ、一番古いのは、ほんに、甘木でしょう。これは、真の愛の会とあります。ね。真愛という、当時新聞が来てました。やはり、金光様から頂かれたという事です。真愛、真の愛。それから、もうそれは、随分、後からでしたけれども、久留米教会に、親愛会と言うのが出来ました。これは、親の愛の会とあります。同じ、しかもね、そのしんあい会が、この筑後地区だけに、三つも、金光様はお書き下げ下さったというところに、こう何か、大変な、意義を、私自身感じるのです。一時は、久留米から言われとったです。あんた方ん神愛会が、間違いやすいから、あんたげん神愛会は、抹殺しろと言われた時代があるんです。なくせろと。けれども、金光様から頂いとるとじゃから、そげな訳にはいかん。金光教合楽教会という事になっても、やはり、神愛会は、今、ほんなら、ここで、関係教会の先生方が集まって、信心の研修をする会が、だからそのまま、お名前を神愛会と頂いております。ね。そこでです、その三つの、「しんあい」という事の内容をね、まぁ申しますと。親の愛のと言うのは、どういう事かと言うと、やはり、親が子を思う、切なる思いというものは、それは、大変尊いものですけれども、往々にして、ね。これには、盲目愛が伴うものです。子供のためには、メクラになってしまう、親が。だから、これは本当ではないなという事が分かります。ね。ただ、親の愛での信心では駄目なんです。
そすと、甘木の真の愛と言うのは、どういう事かと言うと。これは人類愛です。ね。隣人愛。言うなら、自分を含めてでもありますけれども、ね。赤の他人の、誰彼のことでも、思わねばおられない、祈らねばおられない。いわゆる、ナイチンゲール的な愛です。ね。これも、だから尊いです。自分さえ良ければ良いというのじゃないです。ね。それこそ、黒かろうが、黄なかろうが、白かろうが、ね。そういう差別はないのです。ね。その人類愛の、私は、段々、大きくなっていった、ほんなら、ものが、まぁキリスト教的な愛という事になるんじゃないかという風に思うです。
ほんなら、合楽で頂いておる神愛。神の愛。これは、絶対愛であります。ね。だから、その絶対愛の中にはです。それこそ、ね。頭を撫でさすりするような愛もあるかと思うとです。ね。叩く、例えば、叩いてでもという愛です。問題は、氏子が助からなければならんからの愛なのです。それが神愛です。だから、合楽の場合は、どうでも、この神愛を目指すという事。また神愛が分かるという事。私は、真の信心とは、そういう事だと思うです。ね。神様のお心が分からせて貰うて。神様の心を心としての生き方が身に付いて来るところからです。金光大神の生きられ方は、この様な生きられ方ではなかったろうかという事にまでなって来るです。いわゆる、天地日月の心になること肝要という事は、天地金乃神様のお心の、ある意味で全てをです、ね。私共の、日常生活の上にも、現していこう。それこそ、我情我欲の渦巻く人間世界にあってです。ね。絶対愛を信じ、その絶対愛を、自分の身にも付けていきながら、日常生活をさせて頂こうと言う、願いに燃えるということ。私は、そういう信者氏子にです。お育てを頂かなければいけません。
昨日、研修を致します時に、私のほうの娘です。愛子じゃない直子が発表しておりました、その一番に、こういう事を書いておりました。親神様の願いが大きい。親先生の願いも、また大きい。私の願いも、また大きいという事を、一番口に書いておりました。ね。ほんなら、昨日の御理解を思い起こしていただくと良いわけです。ね。ですから、神様の願いは大きい。親先生の願いは大きいだけじゃいかんです。やはり、私の願いも大きいじゃないとですね、へこたれるです、途中で。大きな願いを持っとかんと。ただ、目先の、この事だけを、おかげ頂いたら良いという様な事ではね。必ず、昨日の御理解で言うとね。いうならば、中学から高校、高校から大学という風に、この、試験があるように、試験に落第するです。もう見境がなくなってくるです。ね。それこそ、問題があると、はたと困ってしまって、落第という意味のほうを取るです。はたと困る様な事がありますけれども。ここに、どういう答えを出そうかという、ゆとりがなくなるです。私は、真の信心とは、そういう、大きな願いを持たせて、間違いのない願いを、しかも、持たせて頂く事だという風に思います。
まぁ愛の色々を申しましたが。これは、昨日一昨日、ある方の恋愛問題のお取次ぎをさせて頂いた時に、神様にお願いをさせて頂いておりましたら。今は、そうではありませんがね。けれども、昔は、特殊な部落というのがありました。ちょうど、椛目の、まぁ上に、田島という、特殊な部落がありました。そこに、私共の小学校の同窓で、吉本愛子という人がおりました。その吉本愛子さんを、はっきり頂くわけなんですよ。それから、吉本といや、よしきというですね、元。愛は、やっぱ、この愛の愛です。それは、どういう事か、今は、そんな事じゃないですよ。まぁ、それこそ、私共としては、神の氏子として、みんな、一視同仁なんです。けども、私共の、小学校の頃は、例えば、学校に席を並ぶと、それはもう、学校の先生が、こう区別しよった時代なんです。言うなら、汚いという訳です。足りないと言う訳なんです。ね。こうやる、ね。今は、そんな事じゃない。もうみんな、一視同仁ですけれども。私は、そういう恋愛問題のお取次ぎをさせて貰いよったら、その事を頂いて、その、愛は志向だという訳ですね。彼がいう事は。なるほど、それは、まぁ青春の特権とも言われるくらいな、素晴らしい人生の、まぁそれこそ、青春時代の、神様に、いわば、恵まれたという事にも言えるかも知れませんけれども。たとえば、今日は、真愛、神愛、親愛を三つ申しましたが、その中で、恋愛という事の愛はね、一番最低で、欠けておるんだ、足りてないんだ、汚いんだという御理解でしたよ。ね。だから、愛にも、色々あるわけですね。愛を一視同仁に育てにゃいけません。ね。そういう意味で、ほんなら、合楽の場合は、まぁ本当に、三代金光様の御神徳と言おうか。例えば、全国に、これだけあるけれども、しん愛会と言うのは、ほんなこの筑後地区だけに、三つあるだけなんです。しかし、大したお方じゃあったですね、金光様というお方は。同じしん愛会を、同じ筑後地区に三つも、お書き下げになっておられる。ね。けれども、その内容たるやは、違うのです。やはり、絶対愛を信じ、絶対愛を身に付けていくというような、そういう願いを持ってこそ、初めて、神の機感に叶うたという事になるのじゃないでしょうか。ね。こういう生き方でいくならばです。いわば、人間も、勿論、真の人間を目指すことであるし、同時に、ね。身代も出来ていくでしょうし、ね。健康も約束される。ね。そして、これならば、間違いなしに、子にも孫にも伝わっていくという確信も、また生まれてくる。いや、そういう確信は持たなくてもです。今の、合楽の場合ですね。修行生の方達が、みんな、親の信心を継承して、しかも、道の教師にもなろうかという様な者が、自ずと育ってくる、出来てくるというところにです。私は、合楽の信心が素晴らしい。ね。何時の時代にも、それが本当という事じゃないかも知れませんけれども。その時点時点においては本当だ。けれども、何時もベターで行っておるのだ。より本当な事を願い求めて行っておるというところに、神の機感に叶うた生き方をするから、子供に対する信心の継承が、その様に、みやすう出来ていっておるという事になるのではないでしょうか。そういう信心を身に付けていくならばです。ここにあります様に、神のおかげを知らぬから、互い違いになって来る。
高橋さんところの宮崎の支店長がね。もう、いよいよ、神様のおかげという事を、もう実感してきた。自分の我力では、同時も出来ないことが分かってきた。ね。神のおかげを知らぬから、互い違いになって来る。神様のおかげを、段々、分かってきたから、互い違いになるどころではない。周囲から起きてくるところの、まぁそげん、沢山な要らんち言うとったっちゃ、まぁそげん言わんで、取っときなさいと言われる。それが、ぴっちりこう、もう本当、これを仕入れておらなかったら、商売が出来なかったと言う様な体験を積んでいっておる。特に、人間関係なんかでいや、こら、不思議な事ですと。ね。小僧が一人辞めると、ちゃんと後には、より良い小僧が入ってくるようなお繰り合わせを頂いておるという事。互い違いになってないです。ね。神の大恩を知れば、無事達者でとこう言う。ね。真愛、神愛、親愛を申しましたがです、ね。神の愛が分かってくるという事は、いよいよ、神の大恩が、隅から隅まで、段々分かってくるようになる。ね。だから、それが、無事達者で、子孫も続き、身代もでき、一年まさり、代まさりのおかげを受けることが出来るという事になるのです。ね。そして、私は、今日、皆さんの心の中に、ここだけは、頂き止めとかにゃならないという事は、苦しいから願わすにはおられないという信心から、大体の人は入りますけれども。その信心が、もし、一生続いたとするならば、あなたの信心は、二代に三代には続かない。子孫繁盛家繁盛には繋がらないと、先ず、分かって頂かなきゃいかんです。ね。
ところが、段々、御教えを頂けば頂くほど、自分の力、いわゆる、無力、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだという思いが、いよいよ、深うなれば深うなるほどです。それは、些細な事でも、このくらいな事は、私が出来ると思いよった事柄の中にでも、願わすにはおられん、すがらずにはおられんという信心になっていく時に、初めて、真の信心の入り口に立ったという事になるのです。これを、いよいよ、深めていくならばです。いよいよ、真の信心、真の人が、段々、頂けてくる事になるでしょうから、いわゆる、真のおかげがいただけない筈はないという事になるのです。どうぞ。